蚊取り線香に捧ぐ

日本と聞いて、静かで心安らぐ、瞑想にぴったりの国を思い浮かべる人は、きっと8月初旬の朝にうちの縁側に座ったことがないのだろう。座ってみれば、近所のカラスたちが何をそんなに熱心に話し合っているのか、カーカーと大騒ぎ。その上、相手を求めて必死に叫ぶ、ありとあらゆる虫たちのうなり声が重なる。中でも先陣を切るのはセミだ。低いうなり声から始まるラブソングは、次第に勢いを増し、最後には耳をつんざく絶叫になる。あの声は秋になっても頭の中に響いている。気が向けば、うちのニワトリたちまで合唱に加わる。家の中でコーヒーができるのを待ちながら、縁側で呆然と座っていると、カフェインがまだ入っていない頭はすっかりやられてしまう。

この毎朝の大合奏は午前4時ごろに始まる。だから、僕が縁側に出るころには、もうかなりの時間続いているわけだ。夜に窓を開けて寝られる幸運な人なら、とっくに起こされているかもしれない。ちなみに、蒸し風呂のような我が家の2階の寝室では、エアコンなしで眠るなんて到底無理な話だ。

とはいえ、この騒音も悪くない。よどんだ暑さと湿気と同じで、日本の夏には欠かせないものなのだ。熱気と重たい空気が体を包み込み、絶え間ない虫の声が頭を麻痺させる。7月、8月、そして9月のかなりの部分を、汗だまりの中でぼんやりさまよいながら、エアコンの効いた場所から次の場所へと必死に移動して過ごす。夏の総攻撃を受けて、五感までありがたいことに鈍くなってくる。

ずいぶん遠回りしたけれど、要するに、暑さとベタベタした湿気と騒音に加えて、蚊も山ほどいるということだ。そこでようやく、この僕なりのラブソングの主役が登場する。蚊取り線香である。

ラベンダーの蚊取り線香(AI画像)。
ラベンダーの蚊取り線香をAIで再現した画像。驚いたことに、自分では一枚も写真を撮っていなかったのだ。それ以外、写真に写っているものは全部本物!

僕にとって蚊取り線香は、いかにも日本らしい香りの一つだ。たとえば、寒い冬の朝、ゴミステーションへ向かう途中、近所の家の暖房器具からふわっと漂ってくる灯油の匂い。あるいは、クラフトビールの店から次の店へと歩いているとき、焼肉屋の排気口の前で浴びる、肉を焼く煙の強烈な匂い。蚊取り線香も、いつか日本に住まなくなったら懐かしく思い出す香りになるはずだ。(もっとも、日本を離れることになったら、蚊取り線香をパレット一枚分くらい持っていくつもりだけど。)

蚊取り線香は有害だ、健康によくない、と批判する人もいる。たぶん一理あるのだろう。そもそも、本当に蚊を寄せつけないのか? 僕の経験では、正直それほどでもない。でも、そんなことはどうでもいい。とにかくあの匂いが好きなのだ。夕方、飲み物を片手にハンモックに落ち着き、蚊取り線香に火をつける。それは僕にとって厳かな儀式である。ところが、朝のアイスコーヒーと一緒に火をつけるとなると、なぜかちょっとイケナイことをしている気分になる。

蚊取り線香にも、いろいろな「フレーバー」がある。いちばん一般的なのは「緑」だけれど、そもそも何の香りを目指しているのか、僕にはさっぱりわからない。しかも、選択肢の中ではいちばん平凡だ。僕のお気に入りは、緑、柑橘、白檀、バラ、ラベンダーがそれぞれ一袋ずつ入った詰め合わせ。その中でも、ラベンダーが断トツで好きだ。夏の間は、ほかの格下の香りを順番に消費しつつ、ラベンダーだけは慎重に使う。そうすれば、蚊の季節の終盤には、紫色の渦巻きだけを心ゆくまで焚いて過ごせるという寸法だ。

10月も終わりになった今、朝はずいぶん静かになった。また窓を開けて眠れるようになったし、朝のアイスコーヒーには少し肌寒い季節になってきた。蚊もほとんど見かけなくなった。それでも、うちの玄関先からは、まだほんのり蚊取り線香の香りが漂ってくる。

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